泡沫の恋と人はいう

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 それはこれまで彼女が見たアンドロイドの中でも、一等美しい男性型アンドロイドでした。

「初めまして、ジュリエット様」

 綺麗に整えられた髪と、少しでも人間味を帯びるようにと作られた左右非対称の顔。高い鼻はまるで西洋人のようでしたが、薄い唇と黒い瞳はジュリエットと同じ東洋系に見えました。細身ながらしっかりとした体格と、アンドロイドならではのブレないお辞儀。ジュリエットは一目で彼を気に入りました。

「初めまして。あなた、お名前はなんと言うの?」

 彼は彼女の従僕用に、と父が買い与えてくれたアンドロイドでした。そう、この日は彼女の誕生日。

「ロミオと申します」

 十三歳になったこの日、ジュリエットはロミオと出会いました。


 ジュリエットが生きる、この世界について少しお話しましょう。この世界は皆さんが住んでいる世界よりももっともっと科学が発達し、アンドロイドやサイボーグという存在が当たり前になる一方で、人間が随分と少なくなってしまっていました。度重なる新種の疫病と、大きな戦争、そしてこれまでの人類のつけを払うかのようにして虚弱に生まれてくる子ども達。生き残り、なおも人として生き続けることを選べるのは、一部の特権階級のものだけになってしまいました。彼らは人に使えさせるためにアンドロイドを作り、自分たちは人としての特権を守ることができるように人口を抑制しながら世界を動かしていたのです。

 ジュリエットは人間でした。それは彼女がこの世界の特権階級に属していることを示すものです。ジュリエットを生んだお母様は残念ながらジュリエットが五歳の時に亡くなりましたが、彼女には大好きなお父様がいましたし、お屋敷には他にもたくさんのアンドロイド達が彼女の身の回りを世話してくれていましたので寂しくはありませんでした。

 ロミオは人でいうと十八歳くらいで、他のアンドロイド達と比べても若い容姿でした。見目だけでも年が近いということで、ジュリエットが親近感を抱いたとしても当然のことです。おまけに他のアンドロイド達が屋敷のことや、ジュリエットのお父様の仕事を手伝うために時間を割かれるのと違って、ロミオはジュリエットのための従僕ですから、彼女のいて欲しいときに側に呼ぶことができるのです。お仕事が忙しく、彼女の誕生日さえ一緒にいられない場合のあるお父様とは違います。

 ジュリエットはどんなところでもロミオを連れて歩くようになりました。彼が側にいないのは、ジュリエットが寝入った後だけ。しかしロミオはジュリエットの夢の中でも側にいてくれる日があるので、もう一日中一緒にいると言っても過言ではなかったでしょう。


 さて、では起動して初めてのお勤め先で、ジュリエットと言う名前の令嬢に仕えるようになったロミオにとって、ジュリエットの姿はどう映っていたのでしょうか。十三歳の誕生日プレゼントとして、自分がジュリエットに贈られたものであるということを、ロミオは知っていました。買い主であるジュリエットのお父様は、ジュリエットにロミオを引き合わせる前に、ロミオにこう告げていたのです。

「ジュリエットは私の宝だ。そしてお前の宝でもある。お前はジュリエットに仕え、守るために買われたのだ」

 初めてロミオが会ったジュリエットは、確かにお父様が自慢にし、宝物と思うのが当然の美しい少女でした。ロミオも内部に持っているあらゆる情報から判断して、自分の仕えるべき少女が大変美しい、宝石のような人間であることを認識しました。

 やがてその認識は、ジュリエットの美しさが外見だけでないことを知って広がりをみせました。特権階級の箱入り娘としての天真爛漫ささえ、彼女にとっては美徳以外のなにものでもなかったのです。

「ロミオ、一緒に来て」

 ロミオが目を離す隙もなく、ジュリエットはロミオを側から離しませんでした。それは十四歳の誕生日が過ぎ、十五歳の誕生日が過ぎても変わりませんでした。彼女は従僕用として以外はまったく無個性なロミオを、飽きもせずに側に置いてくれたのです。

 ロミオから見て、ジュリエットは実によく笑う少女でした。もう少女というよりも一人の女性として、時折お父様のお供をして他の人間と会う歳になっていましたが、それでも初めて会った十三の時と変わらぬ輝くような笑顔を周囲に見せてくれます。

 けれど普段ジュリエットの周りにいるのは、ロミオを含むアンドロイド達ばかりです。お父様のお供をするアンドロイドの中には社交性を加味するために笑顔を見せるアンドロイドがいましたが、基本的に屋敷で働くアンドロイドは皆、感情プログラムが組まれていませんでした。それはロミオも同じことです。

 ある時ジュリエットが、読んでいた本に書かれている内容が面白いと言って朗読してくれたことがあります。彼女は自らも笑いながら朗読しましたが、ロミオの表情を見て笑うのを止めてしまいました。

「面白くなかった?」

 ロミオはそれに答えることができません。ジュリエットがその内容のどこで面白いと感じ、そして笑ったのかを判断することはできますが、ロミオ自身がそれを面白いと思うことはできないのです。それがジュリエットには分からないのでした。

「だって、あなた笑わないんだもの。笑った方がきっともっと素敵よ」

 ジュリエットは無邪気にそう言いました。ロミオは誤魔化すということができませんので、ジュリエットにこう答えたのです。

「私は従僕用なので、感情プログラムは組み込まれていないのです、ジュリエット様」

 それを告げた時、ジュリエットは本当に驚いた顔をしました。まるで、ロミオがアンドロイドだということに初めて気づいたかのような。

「……そうなの。でも、私はあなたの笑った顔が見たいわ。お父様に言えば、プログラムを組み込んでもらえるかしら」

 必要ない、とお父様は言うだろうとロミオは予測しました。宝物のように大事にしている娘の言うことでも、ただの従僕用アンドロイドにそこまで手をかける理由はありません。でも、ジュリエットはお父様がそれを叶えてくれると思っているようでした。

「あなたは嫌?」

 ジュリエットは細い首を傾げてロミオを見上げました。その瞳は本当に硝子でできたアンドロイドの瞳よりもずっと繊細な硝子細工のようです。

「分かりません、ジュリエット様」
「そう……そうよね」

 ロミオは嫌だという感情さえ持っていないのですから、そう答えるのが当然のことです。けれど、その答えに納得したように頷いたジュリエットの表情は冴えないものでした。彼女はロミオに感情がないことを、本当に悲しいことであると考えているようでした。

 しかし常識的に言って――この常識は特権階級である人間が作り出したものです――アンドロイドが感情を持たないのはごく普通のことであり、また多くの人間にとっては都合の良いことでした。アンドロイドは感情を持ち、独自の思考というものを持って人間に反乱を起こすことがありません。アンドロイドは生命体ではなく、機械でした。

 お父様はジュリエットの願いを聞きいれたふりをして、しかし実際にはさらにお金をかけてまで、ロミオに感情プログラムを組み込もうとはしませんでした。ロミオはお父様の命令で、ジュリエットの前では感情プログラムを入れてもらったふりをしなくてはなりませんでした。幸いなことに、と言っていいのでしょうか。ジュリエットはロミオの表情が変化しないことを諦めにも似た思いで受け入れてしまっていましたから、感情プログラムが入ってもすぐには笑えないものだというロミオの言い訳をすぐに信じました。

 しかしそんな言い訳はどれほど長く通用するものなのでしょうか。ジュリエットがロミオを笑わせようと努力してくれていることを、ロミオはその言動の端々から見て取っていました。ジュリエットはひたむきで、そしてとても忍耐強くロミオに接してくれていました。本来なら、そうあればならないのはロミオだけのはずなのに。

 ジュリエットの黒髪は成長とともにますます艶やかさを増し、ロミオの宝は誰もが憧れる宝になろうとしていました。そんなジュリエットに似合う花婿を、お父様が一生懸命選ぼうとしていることを、ロミオは知るようになりました。他の人々が集まる夜会に、ジュリエットを連れて行くとお父様が言ったからです。

「ね、ロミオ。私、夜会は初めてなの。上手く踊れるかしら。あなた、私と踊ってくれない? そんなプログラムは入っていないのかしら」

 ジュリエットはその夜会が自分の花婿を選定するための場であることを、まったく意識してはいませんでした。きっと少しばかりお友達が増えて、お父様のお仕事の相手にご挨拶する退屈な場としか思っていなかったのでしょう。ロミオはジュリエットの無知さを分かっていたのですから、それとなくジュリエットに自覚を促すこともできました。ジュリエットの性格からして、お父様が選んだ男性と突然引き合わされても反発するでしょう。それなら最初から、自分で相手を見つけるつもりで夜会に参加すればいいのです。どのみち非常に人口の減った現在の状況では、ジュリエットが夜会で会う人間が全人口であると言っても過言ではないのですから、ジュリエットが結婚できるようなお相手はその中にしかいないのです。そういう事実を、ロミオは教えてあげることができました。

「お待ちください」

 しかしロミオはそうしませんでした。ジュリエットに決められたひとつの道ではなく、よりよいと客観的に判断できる選択肢を与えてあげることができたのに、そうしなかったのです。

「……あぁ、大丈夫です。ダウンロードプログラムがあります。十秒ほどいただければすぐにお相手ができます」

 ロミオは何かが自分の中で壊れているのではないだろうかと思いました。けれどそんな最初の兆候は、ジュリエットの嬉しそうな顔を見た瞬間にどこかへ吹き飛んでしまったのです。

「本当? じゃあね、ワルツをお願い」

 ロミオは頷いて、ジュリエットの望んだとおりにワルツのダンスプログラムをダウンロードしました。ダウンロードが終わると、差し出してきたジュリエットの手を握り、彼女の細い腰に手を当ててワルツのステップを踏み出したのです。

 それはとても、そう、とても幸せな時間でした。その時間、ロミオの宝は彼の腕の中にあったのです。躍っている間、ジュリエットは心も体もすべてロミオに任せてくれていました。人間達の間だけで開かれる華やかな夜会の会場では決して踊ることのできない女性と、屋敷では練習と称して毎日のように踊ることができるのです。その時間を、ロミオはいつしか楽しみに思うようになっていました。そして多分、ジュリエットも。

 練習が必要ないくらいに上達しても、ジュリエットは夜会の前に必ずロミオを相手に一曲踊ります。肝心の夜会でも、ジュリエットは蝶のように軽やかに踊りました。色々な男性を相手にして、それでもステップを乱すことはなく、疲労にちょっと頬を赤らめながらジュリエットは踊るのです。ただ、ロミオはそれを壁際に控えて見ていることしかできません。だから、早く彼女が踊り終わって、あの上気した魅力的な顔でロミオの元に戻ってきてくれることを――ロミオは望むのです。

 なんだ。

 望むこと。そんな未知の暗闇が、ロミオを悩ませるようになりました。

 なんだ、なんだ。

 そもそもロミオには悩みなどないはずなのです。悩むことなど、できないはずなのです。けれどロミオは悩みました。自分の中に生まれてしまったものが理解できなくて。

 俺は彼女に何を求めている?
 そもそもなぜ俺が何かを求めることがある?
 心無い者が、誰かに何かを求めることなんてあるのだろうか。
 あてのない”何か”を求めることが?

 ジュリエットが望んだ基本感情プログラムも、ロミオの中にはないというのに。プログラムが入っていたとしても、こんな想いがアンドロイドに芽生えるものなのでしょうか。まるで、人が恋と呼ぶような感情が――。


 ジュリエットは十五を過ぎて、お父様と付き合いのある人間達と会う機会が増えました。特権階級であることを意識し、また周囲に知らしめるための豪華な夜会にも、何度か参加するようになっています。同じ年頃の人間がいて、お父様は積極的に彼らと引き合わせてくれましたが、それまで屋敷の中で完結していたジュリエットの目には、お父様以外の“人間”というものがとても奇異に映りました。

 特にその表情。皆晴れやかな衣装を見につけて、顔には常に微笑を浮かべています。でもその微笑は決して内面の嬉しさを表すものではないようなのです。まるで仮面のように笑みを纏って、人々は何を話すのでしょうか。お金のこと、家のこと、頭脳のことや血筋のことを。ジュリエットなら、そんなことをわざわざ笑顔で話したりはしません。それらはまるで、面白くない話です。

 それでもジュリエットはお父様の言い付けで今日も夜会に参加します。ただいつも以上に気が進みません。それというのも――。

「お父様がね、今度の夜会にはあなたを連れて行ってはいけないと言うの。どうしてかしら。ね、お父様にはもう一度お願いするから、一緒に行きましょうよ、ロミオ」

 それこそ一日中いっしょにいることが当たり前になってしまっている二人でしたから、一緒に行ってはいけないというお父様の命令を、ジュリエットは承服しかねるのです。ジュリエットにはお父様の考えは読むことができません。けれど、縋るようにして服を掴んだジュリエットの手を、上からそっと掴んで離させたロミオの考えも、ジュリエットには分かりませんでした。

「ジュリエット様、私は今夜、旦那様から御用時を言い付かっております。ジュリエット様のお心遣いは大変嬉しいのですが、今日はお供できません」

 心遣い、とロミオはいいましたが、ジュリエットはロミオを屋敷へ残すのが可哀想だと思って一緒に行けるように願ったのではありません。むしろそれはジュリエット自身のためでした。何となく後ろめたく思いながら、ジュリエットは正直にロミオへ告げました。

「……私、あなたがいないとつまらないわ。ダンスは好きだけれど、夜会なんて、本当は嫌いなの」

 だから本当は、ロミオが行かないことを盾にして自分も夜会に参加しないと言いたかったのです。そんな自己中心的な考えを、甘えを、ロミオは子どもっぽいと思うでしょうか。そんな風には、思って欲しくないのに、とジュリエットは下唇を噛みました。

 ではいったい、ジュリエットはロミオにどういう風に思って欲しいのでしょう。それを深く掘り下げる前に、顔を上げたジュリエットは意外なものを目にしました。思ってもみなかったもの。しかしずっと望んでいたものでした。

 口元をほんのりと引き上げて、逆に目尻はほんの少しだけ下げて、ロミオが微笑んでいました。ジュリエットに向けて、確かに彼は笑っていたのです。それは一瞬の出来事でしたが、ジュリエットの胸はぽっと大きな花が咲いたように温かくなりました。それはずっと待っていた花の蕾がようやく開いた瞬間でした。

「あぁ……あなた、いま笑ったわ。思っていた通りね、笑った方がずっと優しく見える」

 開いた花にどうしようもなく興奮して、ジュリエットはロミオにもう一度笑って見せて欲しいとせがみました。それこそ子どもっぽいと思われて当然のはしゃぎようでしたが、そんなジュリエットに、ロミオは小さく首を横に振ります。

「……まさか、笑ってなど……」

 アンドロイドなのに、ロミオは顔を青くしたように見えました。ジュリエットはそんな彼を、初めての感情の波に戸惑っているのだと思いました。だから励ますようにしてロミオの手を取りました。そうすると、ジュリエットの方も、制御できないくらいにはしゃいでいた気持ちが少し穏やかになりました。

「大丈夫よ、もっと笑って、ね。私も嬉しいから」

 ロミオは何かにすがるようにしてジュリエットの手を握り返しました。でもその顔は微笑とは遠く、いつも以上に硬く強張ってしまっていました。彼を笑わせたいのなら、あくまでも自然に促さなくてはいけないのだとジュリエットは感じました。先ほどの微笑みに本人が気づいていないのであれば、それは本当に思わず出てしまった微笑なのでしょう。なら、無理に促しても笑えるはずがありません。

 ジュリエットは自分の頭をロミオの胸に押し付けて、ロミオの手を握る力を強めました。自分よりも背の高いロミオが、何故か小さな子どものように思えたのです。実際、ロミオは初めての感情に戸惑う子どものようなものでした。ジュリエットは彼の中に生まれた感情を、そっと育ててあげたいと思いました。いつも側にいて、ジュリエットの面倒を見てくれたお礼に、ロミオの助けになりたかったのです。


 本当は不安そうなロミオを残して夜会に行くことは躊躇われました。けれどもお父様には何となく言えません。ロミオが笑ってくれて、けれどそんな自分をロミオが不安に思っているようだから側にいてあげたいということを、ジュリエットは素直にお父様に告げることができなかったのです。

 ロミオが笑ったことは、今のところジュリエットだけの秘密にしてしまいたかったのだと思います。彼の笑顔のおかげで開いた花は、お父様の贈ってくださる宝石よりもずっと輝く宝であるように感じられました。そんな宝を、ジュリエットは独り占めしたかったのです。

 後ろ髪ひかれる思いで屋敷を出たジュリエットはお父様と一緒に夜会へと向かいました。けれど元々気乗りでなかったジュリエットは不機嫌な様子を隠しもしないで、夜会に行っても椅子に座って踊ろうとはしませんでした。だって、いつも側に立っていてくれるロミオが、今日は一緒にいないのです。いつだってどんな男性が誘いに来ても、その誘いに乗って一曲踊った後には必ずロミオがジュリエットを待っていてくれたのです。踊って十分に体を温めたジュリエットに、ロミオはいつも冷たい飲み物を用意してくれていました。いつも同じ整った、一見冷たく見える表情で。

 ……あぁ、でも今日は笑ってくれたわね。

 一瞬だけのその笑顔を思い出すと、ジュリエットの頬も自然と緩みます。そしてすぐに不安そうに青ざめた顔になったロミオを思うと、ジュリエットの胸も不安でどうしようもなく騒ぐのでした。はやり体調が悪いとでも嘘をついて、屋敷に残るべきだったかもしれない。ジュリエットは思います。華やかな夜会に来ていても、ロミオのことばかり、思うのです。

 なんだ。

 ひっそりと、ジュリエットは騒ぐ胸を押さえます。

 なんだ、なんだ。

 本に書かれていた通りでした。ロミオのことを考えるとき、ジュリエットの胸に去来する想い。それはまるで熱病のように体温を上げ、嵐のようにジュリエットの中を駆け抜けます。

 私は彼に恋をしている。
 だから彼の不安に胸が痛む。
 だから彼がいる家に、早く帰りたくてたまらない。
 だから、だから。

 踊ってもいないのに、ホールが暑いわけでもないのに、ジュリエットの吐く息は熱を持っています。ここにロミオがいてくれたら、とジュリエットは思いました。彼がここにいて、微笑んでくれたら。

 彼の笑顔がとても嬉しい。
 彼の笑顔が、こんなにも大切に感じられる。

 それを全身で伝えることができたのに。けれどここにロミオはいないのです。ジュリエットはその嵐のように激しい気づきを、苦労して身の中に収めなくてはいけませんでした。こんな恋の震えを、お父様が見たらどんなに動揺することでしょう。

 ジュリエットは何度も深呼吸をして、沸騰した体温を下げる努力をしました。そして何とかその熱を内側に収めたとき、夜会のお客様と話していたお父様がジュリエットの方へ歩いてきました。

「ジュリエット、こんなところで何をしている。前にお会いしたことがあるだろう、パリス様だ。ぜひ一曲お相手してもらいなさい」

 お父様が連れてきた男性を、ジュリエットは確かにいつだったかの夜会で目にしたことがあるように思いました。けれどそれだけの印象です。ジュリエットは気が進まないながらも、いつになく強引なお父様の言うとおりにパリス様へ手を伸ばしました。パリス様は微笑みながらジュリエットの手を取り、腰に腕を回しました。

 パリス様はジュリエットよりは年上ですが、それも十は離れていないでしょう。背は高く、髪は薄金。夜会に慣れている様子で、ダンスもとても上手でした。ジュリエットは踊りながら、他の人々の視線が自分とパリス様に集まるのを感じました。男性はジュリエットを、そして女性はパリス様をうっとりと見つめています。それは自分やパリス様に陶酔してしまってもおかしくない状況でした。しかしジュリエットは思い知るのです。踊っている相手がロミオではないことを。

 ロミオなら、ジュリエットの腰に回した手はもっと添えるような感じでそっと置かれます。ロミオなら、ジュリエットの手を握る手は、もう少し小さいでしょう。そして接近した体からは、パリス様のような香水の匂いはしないはずです。もし踊っている相手がロミオだったら、ジュリエットの息はすぐに上がってしまっていたでしょう。

 あぁ、やっぱり私はロミオに恋をしている。

 そしてジュリエットは今まで気づかなかったことに気づいてしまったのです。ジュリエットの恋心とは関係なく、お父様がジュリエットをパリス様に引き合わせようとしていることを。周りの人達が踊っている二人それぞれに嫉妬しつつも、似合いの二人だと思っていることを。そして、ジュリエットの手をとっているパリス様が、近いうちにジュリエットが自分の花嫁になることをまるでもう決定しているかのように思っていることを。


 ロミオへの恋心を自覚したジュリエットには、それらはすべて酷い裏切りであるように感じられました。お父様もパリス様も、ジュリエットが今まで何も見えていなかったことを利用して、自分達だけで話を進めてきていたのです。彼らにとって、ジュリエットはまるで子どもでした。ジュリエットは自分がどこへ向かっているのか知らぬうちに、彼らに手を引かれてさまざまな分岐を選ばされていたのでしょう。それももうかなりの距離を歩いてきてしまっていました。

 引き返すことはもうできません。しかし、ジュリエットは目隠しをとって、お父様達の手を振り切って走ることができました。

「ロミオ、ねぇ、ロミオ」

 走り出したら、速度を緩めることは許されません。お父様に追いつかれないように、ジュリエットは走り続けなくてはなりませんでした。けれどそれも、ロミオが一緒に走ってくれたら、きっと疲れてとまってしまうことはないでしょう。

「はい、ジュリエット様」

 きっとロミオは一緒に走ってくれる。ジュリエットは思いました。それが彼女の望みであるならなおさら、ロミオはジュリエットの言う通りにしてくれるでしょう。そこに心があるのかないのかは別として。だからジュリエットは、ロミオに一緒に走って欲しいとは言いません。ただ、何も言わずにはいられないのです。

「私、貴方が好きよ、ロミオ」
「……ジュリエット様」

 ロミオにはそれに答える術がありませんでした。私もです、と答えることは嘘になります。ロミオは自分の中に生まれたものが、人と同じ感情であるとは言い切れませんでした。ジュリエットにはそんなロミオの、口には出さない葛藤が分かりました。

 その葛藤を飛び越えるには、ロミオに恋の翼がなくてはいけないでしょうか。ジュリエットは、彼がその翼でもって塀を飛び越えるのを、待っていることしかできないのでしょうか。

 そんなことはないはず、とジュリエットは一歩足を踏み出しました。直立不動のロミオの正面に立って、ジュリエットは背伸びをしました。ジュリエットは自ら、塀の外で立ち止まっているロミオの元へ身を投げたのです。

「好きよ、ロミオ」

 ジュリエットの呼気が、ロミオの唇にかかりました。けれどジュリエットは、ロミオの呼気を感じることができません。それでも構わない、とジュリエットは思いました。

 ジュリエットはロミオに口付けました。ロミオはジュリエットの口付けを受け、背に腕を回してくるジュリエットの温かな体を感じていました。じんわりとジュリエットの体温は冷たいロミオの体を温めます。そしてその唇から、ジュリエットは神がアダムの鼻にそうしたように、ロミオの口に息を吹き込んだのです。

「……ジュリエット……!」

 ジュリエットの唇が離れると、密着していた体も自然と離れます。けれどロミオは離れていくジュリエットの体を掻き抱き、彼女の首筋に顔を埋めました。ジュリエットにとっては少し痛いくらいに、ロミオはジュリエットを抱きしめて声にならない想いを伝えたのでした。

「ロミオ……ロミオ、好きよ。私、あなたが好き」

 ジュリエットが囁くたびに、ロミオの揺れる感情の波が、抱しめあっている体を通じてジュリエットに流れてきます。ジュリエットはそれを、これ以上ないくらい嬉しく感じました。ロミオの笑顔によって咲いたジュリエットの中の花は、ロミオにも見えるでしょうか。

 きっと見えるはず。目を瞑っていてもなお――。

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